プロジェクト・ヒストリー

久喜工場の開場と新製品の開発。<戦後の復興>長い戦争ののち、1945年(昭和20年)8月15日に終戦となり、会社の再生のために社員一丸となった結果、チャンスにも恵まれて会社は再起することができました。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で、深川砂町工場倉庫は全焼してしまいましたが、1946年(昭和21年)7月に、埼玉県久喜町に約110坪(約360㎡)の工場を取得し、落成式を迎えることができました。久喜工場 落成式。久喜工場時代の当社社員。終戦とはなりましたが、日本社会はまだまだ物資不足・輸送困難のため、そのようなきびしい環境の中、各地の乾繭機の修理・改造・移設あるいは新設に力を注ぎました。左から、大和幸雄(三代目社長)、和平(専務取締役)、大和哲三(初代社長)、大和精一(二代目社長)。久喜工場の落成式祝賀会。<日本の蚕糸業>日本の蚕糸業は、第二次世界大戦前の1940(昭和15年)に生繭生産量は約33万トンありましたが、戦中から終戦後、1947年(昭和22年)まで生糸輸出は途絶していたため、生繭生産量は約5万3千トンまで激減しました。戦後、食糧輸入のため見返り輸出品として生糸増産計画がとられましたが、米国では(1938年(昭和13年)に生糸に代わるナイロンが発表されて本格的に生産されだしましたので、生糸の輸出は伸びませんでした。ですが、1948年(昭和23年)から生糸は順次増産され、 1952年(昭和27年)には生糸の生産量は10万トンとなりました。そして、次第に世の中も落ち着きを取り戻し、生糸は国内市場の和装へと移行して生繭10万トンも1974年(昭和49年)まで22年間にわたり維持されました。生糸の需要を増やすためにも、安くて均一なものを作る必要があり、 1950年(昭和25年)ころから多条繰糸機に代わり、画期的な自動繰糸機が普及し始め、生糸の均一性と生産性の向上が、順次図られるようになりました。<乾繭機需要の増加>戦後も、物資不足・輸送困難など苦しい時代でしたが、少ない資材でなんとか各地の乾繭機の修理・改造を主体に工事を行なってきました。その後、日本の蚕糸業もだんだんと復興し生繭生産量も増大されてきましたので、乾繭機の修理・改造以外に新設も増えるようになってきました。<新製品の開発>乾繭機以外の各種産業用乾燥機については、第二次大戦の戦前中にも多少納入していましたが、戦後も次第に落着きを取り戻し、各種産業界も復興し始めてきましたので、食品・薬品など各種産業用乾燥機の需要が増え、開発に一段と努力いたしました。久喜工場時代は、1946年(昭和21年)から5年間で、乾繭機以外の新製品として各種産業用乾燥機である箱型乾燥機・トンネル型乾燥機・1段バンド型乾燥機・多段バンド型乾燥機などが納入され始めました。当時開発された新製品は次のようなものでした。1)箱型乾燥機。箱型乾燥機は、材料を積載した容器(トレイ)または成形材料を、乾燥室内の固定棚または台車棚に差込み、熱風によって乾燥する構造です。 1946年(昭和21年)~ 1950年(昭和25年)、に、食品用、あるいは電気部品用などの箱型乾燥機が納入されました。2)トンネル型乾燥機。トンネル型乾燥機は、台車に材料を積載した容器(トレイ)、または材料を直接積載して、トンネル室の入口部から押込み、乾燥室内を移動させながら乾燥し、トンネル室の出口部で取り出す構造を持つ乾燥機です。 1947年(昭和22年)に食品用、あるいは化成品用などのトンネル型乾燥機が納入されました。3)1段バンド型乾燥機。1段バンド型乾燥機は、コンベヤバンドが1段で構成され、入口から供給された材料をそのままの状態で、一般に通気流を用いて乾燥し、出口部から乾燥品が取出される構造の乾燥機です。 1946年(昭和21年)に、繊維品用乾燥機として1段バンド型通気乾燥機が納入されました。4)多段バンド型乾燥機。多段バンド型乾燥機は、コンベヤバンドが多段(2~10数段)で構成され、一般に最上段入口部から供給された材料を、上段から下段に段落反転させながら、出口部から乾燥品が取出される構造の乾燥機です。 1950年(昭和25年)、乾繭機以外に樹脂用多段バンド型乾燥機が納入されました。